勝手にコラム


スゴイ人特集1〜藤堂高虎(1556−1630)〜


マニアック度★★★★☆

先日、津に藤堂高虎公が370年ぶりに帰ってきた。10月8日に行われた津まつりのパレードで、安濃津丸に乗って手を振っていた。しかし、当然本物ではなく、NHK大河ドラマ「葵・徳川三代」で 高虎役を務めた、俳優の田村亮氏であった。地元にいながら津まつりを観るのも小学校か中学校の時以来かもしれない。と言っても別に用事があった為、たまたま観たと言ったほうが正解かも!? それにしても藤堂高虎にしても田村亮にしてもいまいち地味である。田村亮の場合は二人の兄が有名過ぎて、3兄弟の中ではやや影に隠れている感がある。田村亮氏が 安濃津丸の1日船長に決まったとたん、「えっ、一人で来るの・・・。淳は?」って言う人もいたのだ。今の若い人達にはロンブーのほうが有名なのがわかるが、ちょっと残念な気がする。 高虎もそうである、津藩祖という事で知っているが、全国的にみても誰もが知っている人物ではない。今回のコラムはそんな藤堂高虎の全貌にせまってみた!

葵三代での高虎像

わたしは個人的にNHK大河ドラマが好きで5年ほど前からほとんど毎週かかさずに見ているが、年々視聴率も下がっている。去年の「元禄繚乱」は、かなり低かったように思うが、それに比べれば「葵・徳川三代」 は検討してる。
高虎は、「葵三代」では第一回目から登場しており、かなり出番も多い。関が原の戦いや、大坂夏 冬の陣での活躍はもちろんの事、晩年の家康の参謀として描かれ、又、安濃津への国替えといったマニアックなシーンもあった。高虎がこれほど家康と密に接していたのかと驚かされる。これだけではない、家康の死後も 徳川家に忠節し、東照大権現を日光へ移管する総奉行に命ぜられたり、二代将軍秀忠の五女、和姫の入内(じゅだい)にも、高虎が一役かっている。外様大名でありながら藤堂高虎が徳川幕府の創建に影で支え、 譜代大名からも一目置かれる存在として描かれているのだ。

勝者こそが我が主君

高虎は裸一貫で家出同然で流浪し、近江の浅井家に仕える。そして15歳の時、姉川の戦いで織田・徳川軍と戦い初陣を飾るが、功績を評価されず浅井家を後にする。その後次々と主君を変え、織田家で頭角を表していた羽柴秀吉の弟秀長に禄300石で召抱えられる事になる。 秀長の前に仕えていた織田信澄では80石であった事を考えると、300石は破格の待遇であり、秀長が高虎の才能を高く評価していた事がわかる。高虎にとって秀長が5人目の主君であり、秀長が死ぬまで仕え、紀州粉河2万石を与えられるまでになった。
秀長の死後、秀長の嗣子秀俊に仕えるが、秀俊が夭折した為、頭を丸め高野山へ隠棲した。しかし、秀吉が高虎の才能を放っとく訳がなく、伊予板島7万石の大名として召抱えた。板島は高虎によって宇和島と改められた。朝鮮出兵では、加藤清正や黒田長政といった歴戦の武将らと共に高虎も水軍を率いて出陣したが、 秀吉の死によって将兵を引き上げる事となった。5大老の一人であった家康がその役に高虎を推薦。家康は高虎の迅速な行動に感心し、高虎も自分を買ってくれた家康に心服するようになるのであった。
関が原の戦いでは早々に東軍につき、豊臣大名の調略活動などを行い、また、大谷吉継軍と戦い、その功績で、伊予今治22万石に加増される。今治も今張と書いていたが高虎によって改名された。その後、伊賀・伊勢津に転封。大坂の陣では先鋒を務めるなどして活躍。32万3千石にまで加増された。 家康の死後も徳川家に忠節し、1630年にこの世を去ることになる。高虎は200か条にもおよぶ遺訓を残し、藤堂家は幕末まで転封、改易などされること無く命脈を保った。
ところが幕末、藤堂家は鳥羽・伏見の戦いでは幕軍として戦ったが、突如一転して幕軍を攻撃、それがきっかけとなり官軍に勝利をもたらした。次世代の勝者を嗅ぎ分ける鋭い嗅覚は、家訓が末代まで完璧に伝授された結果かも知れない。

高虎の評判

高虎の評判は決していいものとは言えない。次々と主君を変えることから、裏切り者呼ばわれされたり、ごますり大名や世渡り上手などと罵られる場合が多い。地元の津の人でも高虎に良い印象を持っていないようだ。しかし単にごますりや世渡り上手では、禄80石から32万石の大大名にまで 出世することは不可能であろう。高虎は自分を評価してくれない主君には早々と見切りをつけて、能力を買ってくれる主君には異常なほどの忠誠を誓う人物だったのだ。

日本一の築城家

高虎は自らの居城として、宇和島城、伊予大洲城、今治城、伊賀上野城、津城などを築き、さらに丹波篠山城、和歌山城、二条城、伏見城、大阪城、淀城、膳所城、大和郡山城、名古屋城、駿府城、丹波亀山城、江戸城などの縄張りや築城指揮を行っている。 特に、今治城は堀に海水を引き入れ、軍港を設置したり、又、伊賀上野城の30mもの石垣は当時日本一の高さを誇った。高虎の独創的で高度な築城術がうかがえる。 それだけではなく、城を中心とした町づくりにも大きく関わっている。なぜこれだけの才能があったのか・・・。これは秀長時代に自ら城攻めに参戦し学んだことや、穴太(あのう)衆と呼ばれる近江の大工職人らを召抱えていたからなし得た事と考えられる。

津における貢献度

関が原の戦いの際、前哨戦として安濃津が戦場となった為、高虎が津に入封した当初はまだ荒地になっている所も多かったと思われる。津城はもともと信長の弟の織田信包が築いた城であり、高虎は津城の大改修と新しい町づくりを行った。 当時、海岸線を通っていた伊勢参宮街道を城下に引き込み、町に人を寄せ付けてにぎわいをもたらした。又、岩田川の南に、高虎が伊予からつれてきた町人衆を住ませたことから、伊予町と名づけられた。
高虎の死後も二代藩主高次が、高虎時代からの家臣、西島八兵衛に雲出川流域のかんがい用水の工事を命じている。いわゆる雲出井水である。雲出井水の完成により、干ばつから水田を守り、現在でも機能している。津市の南部、高茶屋にある水分(みくまれ)神社には、西島八兵衛が奉られている。

2番手主義

槍一筋で功名を上げてきた高虎は秀長に出会ってから一転するようである。武勇の将から知勇の将へと成長したのもこの頃だったにちがいない。秀長に出会うまでは自分を評価してくれる主君にめぐまれなかった。だからこそ自分の才能をいかしてくれる人を求めていたのだ。 それが秀長や家康だったのだろう。秀長は豊臣政権を影でささえ、常に脇役に徹していた。秀長は高虎にとって理想の主君であり、自分もこうありたいと思っていたにちがいない。事実、家康についてからも高虎は常に脇役に徹している。それゆえに、地味なイメージを際立てているのだろう。

伊勢を中心としたタウン誌として「Simple」という雑誌が発刊されており、10月号か11月号か忘れたが、「21世紀に残したい三重県ベスト100」といったコーナーがあった。順位こそ忘れてしまったが、 主なものとして、赤福餅、松坂城、本居宣長、松尾芭蕉、宮川の清流など、100位まで三重の物産、建造物、人物などジャンルに関係なく色んなのがランクインされていた。が、しかし、100位までに藤堂高虎は入っていなかった。あまりにも寂しい結果である。腹立たしさも感じる。 大河ドラマにほぼ毎週登場し、かつてのイメージをくつがえすような描かれ方をしてるにもかかわらず、地元の人は冷たすぎる。津市が県庁所在地でありながら、全国的にいまいち知名度が低いのは、高虎の2番手主義がもたらした産物かも知れない。 高虎の生きた時代はまさに戦国の真っ只中で、信長、秀吉、家康の時代を駆けぬけ、裸一貫から32万石の大大名にまで上り詰めた。しかし、そんなサクセスストーリーを書き記した書物が極めて少ないのはなぜか、やはり自分の都合でころころと身を転じるイメージが日本人には合わないのであろう。 「葵・徳川三代」でもみられるように、最近は高虎の人物像が見直されているように思う。個人的には、藤堂高虎が大河ドラマの主役を張れるようになるのも、そう遠くないと予感する。


BACK

HOME