一身田 メモ




地名の由来「いっしんでん」
(説1)律令制のもとで斑田収授がおこなわれるようになったとき、そ
の身一代に限って与えられた田を意味する。

(説2)奈良・平安時代の「別勅賜田」中の一身田。政治上の功績があっ
た者や高位高官の者などに特別の勅命によりその身一代に限り与えら
れた田。
この一身田の場合、伊勢神宮に奉仕する皇女(斎王)ではないか。
鎌倉時代神宮領荘園で、一身田御厨と呼ばれた。

寺の名前「せんじゅじ」
「修」は「じゅう」とは読まず呼び名に矛盾はあるが、法念上人の
「せんじゅ念仏」にちなむ。
この東に駅ができるとき、地元は「専修寺」を希望し、実現するとこ
ろまでになったが、政教分離の原則に反すると関口精一氏の意見で
「東一身田」となった。

寺内町(じないまち)
町の人は寺から金を借りる特権。
藩や幕府から寺への補助金、寺はその金を貸し年12%程の利息を得て運
用した。
将軍からの御拝受銀を借り1件あたり20両で150万円位、これにより町
人は商いができ、町の繁栄につながった。
全住民を真宗高田派門徒として組織化。
同行は毎月9日(真慧命日)15日(親鸞命日)に念仏をあげた。
現人口: 環濠内295世帯 854人、橋向区123世帯、344人 合計 418世帯
1,198人。
東西500m、南北450m。
明治4年(寺社領上地令により寺領を失う)明治6年8月一身田博覧
会、明治7年桜門黒門赤門売却、明治24年関西鉄道一身田駅、大正6年
伊勢鉄道高田本山駅。

毛無川(けなしがわ)
この川は「坊さん」のまちを流れている→ 頭髪無し∴毛無  これ
は冗談
毛は稲の意味。「毛有り」の地名もある。
 毛無は稲が無い所ではなく、毛成しすなはち稲作灌漑に供する川の
意味か。

一身田には庄屋が3軒あり交代で役を担当する。

この川沿いでは大河内伝次郎の丹下佐膳「こけざる」で大河端の映画
ロケがあった。

毛無川に接続して西は安楽橋、東は栄橋の南北に堀がある。
軍事的なものはなく、仏法支配地を意味する。

栄橋から東の道路は、明治45年親鸞上人年忌に作られた道路。
南の伊勢別街道へは門前の遊廓が建ち並んでいる。

1650年(万治1:350年前)水茶屋が発祥。寺公認で、免許は5年ごとで、
20両納めた。
街道の森は紀州藩で、強引な客引きにトラブルが多かった。

妻入り建築は「神宮(平入り)に遠慮して」との理由はこじつけで、伊
勢の河崎に見られるように港町に多い建築で、これが伊勢街道に広ま
った。

●黒門(くろもん)
町の入り口にあり明け六つに開け、暮れ六つに閉める、門の横に番所
があった。
黒いから黒門(惣門):常盤橋北詰。
東北部(東町)に江戸方面入口に赤門、西町の入口は桜道之門一般に
は桜門。

●一御田神社(梵天宮)棟札に嘉吉3年(1443)550年前 35戸の民戸。元
和5年(1619)の棟札 祭神:大梵天王(津島神社の信仰)、神明(伊勢信
仰)、溝淵(美濃夜神社:溝淵社=潅漑用水の農業神):農耕生活の神の3
社。 一身田、窪田はもともと農耕集落。



●高田山専修寺(せんじゅじ)
真宗高田派 第10世 真慧を下野国高田から迎え、1470年ころ(530年
前)、無量寿院を建てたことにはじまる。寺地は当地の有力農民の寄
進。
ここが京都の朝廷や幕府との連絡、伊勢国北部に大勢力を持っていた
長野氏との接触の拠点として、真慧の弟子たちが中心になって建立。
跡目をめぐる抗争や下野高田の専修寺が兵火で焼失するなどがあり、
真智(京都常盤井宮家から養子)が一身田無量寿院に居住、荒廃した
高田専修寺に代え一身田を教団の中心とするようにした。

近江国坂本の妙林院を本拠にしていた真慧の実子応真没後、飛鳥井家
から入寺して専修寺12世となった尭慧は坂本から伊勢へ入り、安濃の
豪族乙部氏から内室を迎えこの地の勢力の支持をとりつけた。真智は
一身田から退去、天文17年(1548年:450年前)尭慧が入り高田専修寺住
持の住房として定着した。本願寺教団が大きくなったことに対抗し
た。
  下野国高田:現在の栃木県芳賀郡二宮町高田

寺伝:関東地方を念仏を広めるなど教化中であった親鸞が52歳のとき
この地を訪れ、夢想によって信州善光寺から一光三尊仏を感得してこ
こに伽藍を建立。

1545年創建後2度火災。現境内は 89,964.08m2(27,261.8坪)。
当初は太鼓門あたりに、東向きに堂があった。真宗の本山は10派ある
が東西本願寺をはじめ全部西から東を向いている。ここだけが南面し
ていることを、ある工学博士は高田だけが南面している、これは高田
は古い伝統を持つ寺院であるという。
しかし、
古いお寺は殆ど南面している。専修寺はこの定義には当てはまらな
い。浄土教の寺は阿弥陀如来が本尊で、西方極楽浄土ということで西
にいる。
したがって西から東を向くというのは原則になっている。

二度目の火災正保3年(1646)ののち、藤堂藩から土地の寄進を受け西
へ広がった。
地どりも南を向いた方がよいということになったもの。
16代門跡(養子、妻は高次の4女糸姫)が高次に出した手紙が残ってい
る。
「14代はどうしても東向きに堂を作れという、2つの堂を建てるには
南面にしたほうが形がいい、それに街道も南門前を通り、江戸からの
参宮街道は江戸橋ができてから海岸沿いに変わった。
伊勢という土地柄、夏は東からの大風も多い、御堂の灯明も消えてし
ょうがない。門徒はそれに賛成しているが14代はがんとして聞き入れ
ない、意見をしてくれ」という長文の手紙を出した。高次が説得して
現在の建築となった。

親鸞の肖像をまつった御影堂、阿弥陀如来をまつった阿弥陀堂。この
二つの堂で本堂という。法義からいうと阿弥陀如来を本尊としている
ので、阿弥陀堂(如来堂)が本堂のはずである。外見からすると御影
堂のほうが大きい。
 如来堂は建て前上の本堂で、こちらが本音の本堂。
 親鸞は先生といわれることを好まなかった。
 阿弥陀さんの教えを取り次いでいるだけだという。

この堂の中で本尊としてまつられることは考えていなかったはず。先
生でないといっても門徒にとっては崇拝の対象に成らざるを得ない。

  時代の移り変わりとともに、舎利(塔)の信仰から仏像信仰、そし
て教えを開いた人をまつる堂(開山堂)を本堂にした形になった。

●山門(三門)


県文 智恩院、南禅寺の山門と同じで最高級。格式を表現する。この
ような大きな門ができたことは不思議のひとつ。五間三戸二階二重
門、最高の格式。
宝永元年(1704:293年前)。山門とはもと三門(三解脱門)。
釈迦・文殊・普賢の仏像をおいていた。
「空・無相・無願」で門の入り口も三つ。

肘木先の彫刻は大仏様式。全体として京都の東福寺三門と似ている。
背面にも屋根が張り出している裏向拝(ごはい)は他に例をみない。
前面軒では御影堂の向拝全体、背面柱筋では堂前面、向拝柱筋では境内
全体が視野に入るように設計された。

地盤沈下修理。

篇額「高田山」:文化8年(1811)天台座主青蓮院一品尊真法親王の
筆。


門から御堂への石道は18列ある、これは第18願 根本誓願、唐門から
如来堂への石道は17列。第17願にちなむ。

唐門(からもん)
 県文 脚門。総欅。天保15(1844:153年前)上棟。文化6年着工から35
年。
 棟梁高木光規は作右衛門の孫。唐様(禅宗様)勅使門。表裏に唐破
風。
 天竺様(大仏様)

御影堂(みえいどう)
 重文 開山親鸞上人木像を中央に歴代上人を両脇に安置。間口42.
74m(24間),奥行33.5m(20間)、畳725畳、一般的に千畳敷という。
全国木造建築ベストテンに入る。
寛文6(1666:330年前)上棟。獅子口に同7年と刻まれている。純和様。
内部は東宮に匹敵するほど華麗。中央に親鸞上人の木像。
極彩色、牡丹唐獅子の欄間大規模、西本願寺の民家的に比べ高田は本
堂形式。
菊の欄間は江戸後期に入れたものか。
棟梁江戸坂本三左衛門、下棟梁一身田森万右衛門。普請奉行藤堂仁右衛
門。

・親鸞上人の称号「見真」の山額 明治9年、明治天皇の真筆。
号には大師-国師-禅師があり、弘法、伝教は最高の称号をもつ。
親鸞は大師号がなかった。
親鸞は体制側につかず民衆派であって日本最大の真宗の開祖に大師号
をと陳情したが、比叡山は「女犯戒を守らない破壊僧」と猛反対、江
戸時代には称号はもらえず明治になり妻帯も可と改まったことから見
真大師号下る。
真宗寺院23000、曹洞宗15000、ついで真言宗と真宗は最大。
平成大修理完了 平成20年1月8日 御復座法会
平成12年2月1日から約50億円をかけ半解体修理工事が行われてき
た。
2007.12.18

通天橋 御影堂と如来堂間の渡り廊下。唐破風造。寛政12(1800)

如来堂(あみだ・にょらいどう)
     
 重文 阿弥陀如来立像(檜材寄せ木 鎌倉中期慶俊作運慶門下 証拠
の如来:専修一門の正統、 法流に誤りのない証拠として慈覚大師一刀
三礼彫刻)。
立像と同時に製作された台座とは差込ではなく銅金具で接続、足裏に
金泥、截金(きりがね)で仏足石と同様の絵がある。左足を半足長前
に出している、西方浄土から迎えに歩いてくるその一歩か、来迎形
(らいごうぎょう)

踏み分け蓮台禅宗様式御影堂とバランスをとるため裳階つき重層。二
階建てに見える、本堂の高さと合わせた26m位か、日本では有数の建
築。中央部に柱がなくワイド、礼拝に考慮か。

柱の間に詰め組み物、欄間の彫刻は派手で前にせり出している。
享保6年(1721)着工、寛延元年(1748:250年前)完成。
ちょんな入れから27年経過。

間口25.7m 奥行26.6m 建坪664m2 約205坪、畳288畳 屋根瓦55,000 獅
子口(鬼瓦)18ブロック、重さ1.5t 高さ2.98m 棟梁は近江八幡の高木作
右衛門光連、下棟梁に白塚の長谷川藤左衛門、浜田の村田喜太郎。
6,650両 内大工延べ34,000、現在の相場では約20億円。
藤堂藩の財政状態悪く援助望めず建設困難。

・材木:奥美濃→飛騨川→桑名。梁に筏流しの痕跡、一身田の刻字。
用材運搬(筏流し)には領地ごとに許可と通行税を要した。
美濃国郡上郡弓掛(ゆかけ)山、槻(ツキ)欅の一種104本1815両約3億円、 桑
名から40里。
屋根は「空葺き」という最新先端技術工法。
昭和の大修理(昭和55-平成2)15億900万円。 裳階付き。象、龍、獏
の彫物

・妻飾りの鶴:大屋根の東西の妻に取り付けられた鶴は左甚五郎作
で、夜になると飛び立って蓮池に降り立つという伝説。実在の人物で
はないとか。
日光東照宮は如来堂より百数十年前だからこの如来堂建築時には生存
していない。
彫刻は京都の九山新之丞。伊勢湾台風で首と右羽根が吹きちぎられ
た。

・勘六の人柱:寛保3(1743)7月12日(日のところは艸かんむりに冥:
日のこと) 本覚道元信士俗名勘六。この時期は石搗き最中.この柱
の部分は地盤が最も軟弱なところ。東南隅柱台石。

・建築資金:全国組織の「1銭講」、享保4年(1719)3年間毎日1銭ずつ
の日掛けをさせた。当時1銭、宝永通宝1枚は4文、約120円。
3年間日掛けで現在の価値で13万円を越える。これによって本山へは6
億円が集まった。それでも足りずに4年後には第2回目の募財をしてい
る。

三段に伸びた尾垂木の先は上から象・竜・獏の彫刻。組ものの間には中
国故事に基いた彫刻西王母の蟇股(かえるまた)がある。

御廟(ごびょう)
 県文 唐門と透塀に囲まれたことろ。
唐門の後ろに拝堂。正面石橋の向こうに裾を石積みの土饅頭。親鸞上
人の墓。
寛文12年(1672:325年前)に遺骨を埋めて造営。両脇に歴代上人の墓。

専修寺庭園 安楽庵(あんらくあん)
 安楽庵は茶室の名前。雲幽園、六解園、六橋園ともいう。竹島、沖
の島、中の島があり船で回遊、船蔵もあった。石はあまり使わず、平
安鎌倉時代の名残もある。
回遊式庭園。道安(利休の長男)・有楽(信長の弟有楽斎 利休の弟子)の
合作。
秀吉が伏見城内につくったものを高虎が貰い受けてここに移転とか。
糸姫(高次4女 蒲生氏郷から再婚、持参金の山二つ(高野尾、窪田)、太
鼓門、能舞台100人扶持、このときに持参の窪田の茶席を移築したもの
ではなかろうか(平松)
・宗旦古流。→御殿流、一身田流。
昭和49年水害で倒壊 昭和55年から修理3,800万円、屋根の葺き替え
1000万円。石橋の形式から江戸中期か。

太鼓門
 最上階に太鼓があり、時の太鼓という。もと二層、親鸞600回忌に
四層にした。享保のころの太鼓胴あり。梵鐘には時を告げる役割はな
く、法事の始まりを知らせた。

賜春館
 明治13年(1879:120年前)7月9日 明治天皇行在所 天皇が「ここは春
みたいだ」と言ったことから命名。明治天皇が用をたすために新築。陸
軍大演習。
和風書院。表座敷18畳、12畳、12畳。裏座敷12畳、8畳、8畳。
表上の間は謁見の間、裏上の間は寝所。

鐘楼(しゅろう)
 鐘は藤堂高次妹 高松院(尭朝上人内室)の寄進。
鐘:辻越後守重種、氏種 慶安5年尭朝。
七回忌菩提、15世尭朝 正保3<1646>江戸で切腹?心労で32歳。堂:慶安3
(1650:350年前)竣工。

○菩提樹:上求菩提、往相廻向。 ドイツ歌曲の「菩提樹」とは品種が
異なる。実を数珠に使ったことからこの名が付いた。
○柳:下化衆生、還相廻向。高田下野の物語:明星天子の夢枕、柳の枝
を挿したらその低い田の地盤が一夜で盛り上がり高台となった、いわ
く高くなった田で高田とか。
○勘六松:勘六の人柱犠牲に感激した同行の植えた松、源助松とも。
松食い虫被害

銅鐘県文。高麗中期の優作。朝鮮出兵のときの戦利品で高虎の献
上品。

銅灯篭市文。辻越後守陳種(のぶたね) 延宝6年


<資料>・町並み調査報告書 平成元年3月 津市教育委員会
  ・専修寺 生桑完明著 昭和23年11月28日 宗務院
  ・如来堂ができるまで 平松 平成3年4月10日 高田派婦人連合会
  ・一身田寺内町歴史散歩 平松講話 1983・12・4
  1997年2/25、11/2編集 村田博史



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