志摩 戦前のことども ・昭和13年12月−15年 1月波切警察署次席兼行政主任(巡査部 長) ・昭和26年10月−27年11月南志摩地区警察署次席(警部) ・昭和38年 6月−40年 3月鳥羽警察署長(警視) …と3回志摩で勤務し、志摩には因縁が深く懐かしいところです。 とりわけ波切署勤務当時のことは忘れられない思い出です。 当時波切署は、 署長(警部)、捜査主任(巡査部長)1人、行政主任(同)1人、 内勤、刑事、駐在巡査が合計16名で警察官は計19名。 ほかに小使、給仕、電話交換手 各1の少人数でした。 捜査主任の巡査部長は捜査関係に専従し、行政主任だった私 は捜査以外のすべての事務を処理しなければなりませんでした。 警察の仕事は極めて多岐で非常に忙しかったものです。 勤務は名目上、1日交替の24時間勤務(うち6時間の休憩仮眠 時間)です。1日勤務すれば次の日は非番で休めるわけですが、 仕事量が多くて休んでいては処理できませんから、非番の日も昼 間は出勤して仕事をし、夕方帰宅し次の日は当直勤務に服しま す。 ただ非直の日の日曜日には朝から休養します。 したがって朝から休めるのは2週間に1回というわけです。 当時の警察は行政の多くの分野に携わってました。 衛生.工場.労働.消防.防空.動員召集.狩猟.爆発物.危険物.水難 救護.交通.科料の言渡し、ごく軽微な事犯の刑の言渡し(裁判)ま で警察がやりました。 ・衛生警察・ 当時は保健所はなく県警本部に衛生課があり、予防、防疫等の 衛生業務をやりました。 大掃除の検査にも警察官が同行立会したし、料理屋、旅館、飲 食店等の新設、増改築等の許可、それらの施設内には結核予防 のため、適当数の痰壺が設置され常に消毒剤(石炭酸)がいれら れているかの取締。 トラホーム予防のために洗面所、トイレ等には共同タオルが設置 されないよう。 また理髪店の器具の消毒実施状況の取締など、1か月に1回ない し2回は視察に行くことになっていました。 伝染病が発生すると、その家や家周辺の消毒、患者の隔離。ま た屠殺場の監視、斃獸解体(へいじゅう:病気等で死んだ牛、馬、 豚等は食肉に供さないよう解体して薬品をかけ焼却または肥料に する処置)の立会も警察の仕事で、斃獸も死後数日経っているも のが多く、解体に立ち会うと臭気が甚だしく、これが制服にしみつ いて、なかなか取れないので2.3日は、特に食事時に困りました。 ・工場 労働・ 労働基準局も同監督署もなく、ようやく職業斡旋所ができた当時 で工場関係も警察の対象でした。 常時5人以上の労働者を雇傭するところは工場法の適用をうけ、 従業員名簿、賃金支払簿等を備え付け記録することになっていま したが、正確に記録されているかの視察取締を毎月1回以上行 い、また原動機(モーター、蒸気機関等)の設置も警察署長が許 可し、それらの定期検査も警察の仕事でした。 県警本部には工場課、また健康保健課もありました。 ・消防 防空 水難救護・ 市町村の消防手をはじめその幹部の任免権も警察署長にあり、 その指揮、監督、指導等も行いました。 満州事変から支那事変へと次第に戦時色が濃くなり、民防空が 強調され、県警本部に警防課が設置され、消防と防空事務が所 管され住民による防空訓練も盛んに行われましたがその実施、指 導も警察が行いました。 県下10数ケ所の要所には防空監視哨というのが設置され、県警 本部に防空監視隊県本部が置かれ、軍からの指令によって直ち に監視員が配置について上空の監視に当り、 航空機を発見した時は(敵・味方の区別なく)直ちにその機種・機 数・発見時間・発見方向・進行方向等を県監視隊本部に電話報 告、県本部は軍防空隊(師団司令部)に報告、軍はこれによって 必要な防空体制をとるというシステムでした。 当時は警察電話といって逓信省と関係のない独立専用電話 で、防空監視哨の通話は他の通話に優先して取扱われ、他の用 件で通話中でも中断されました。防空監視員の任免、指導、監督 も警察で行いました。 海岸線を管轄する警察署には水難救護所がおかれて、波切に も当然これがあり、私は水難救護支所長にもなっていました。暴風 雨等で船舶が遭難した場合には救助船を出して救護に当たるわ けです。 ・動員 召集・ 支那事変が拡大して、動員・召集が増加していましたが、警察 署には動員区分に整理された召集令状(赤紙)が常に保管されて いて、聨隊区司令部から動員下命(例 第○号動員下命された) の伝達があると、保管している令状を市町村役場に持ってゆき、 市町村役場が各個人に伝達する仕組みになっていました。警察 署には兵事主任がおかれ、波切署では行政主任の私が兼務して いました。 署長や兵事主任は市町村役場の動員召集業務の指導監督の 責務がありました。 動員には徴発が併っているのがあり、徴発とは馬やトラックなど 軍が必要なものを徴用するもので、第○号動員には徴発が併っ ているということをよく承知していることが大切で、もし徴発を忘れ ていたということになると、署長と兵事主任は懲罰、次の人事異動 にも影響することは当然でした。 波切署管内には馬が1頭もおらず、トラックが2台あってそれが 徴発対象になっていたことを今でも覚えています。管内に馬が1 頭もいないということは当時としては極めて珍しいことで、兵事主 任になって初めて知ったことでした。 ・狩猟・火薬・爆発物・その他危険物・ 狩猟の許可・取締りも警察の業務で、志摩郡は雉子が多く棲息 し、阪神方面から多くのハンターが出入していました。 花火(煙花)を揚げるとか、火薬・爆発物等の使用(採石等)運搬 の許可・取締も警察の仕事でした。 ・科料の言い渡し・ 罪を犯せば処罪されることは当然ですが、そのうちの軽微な刑 (科料)の言い渡しは、「違刑罪即決令」という省令によって警察 署長が行いました(それに不服があるときは正式裁判を受けること ができる) 科料は20円以下で50銭、1円というのもありましたが、警察官の 初給が38円当時のことですから、それからご想像ください。 波切署のような小さな警察、そして平穏な土地でも月に10件か ら20件の科料の言渡しがあり、署長が不在等の場合は私がやりま した。 ・その他・ 【人事相談】警察はもともと私事には関与しないというのが原則で すが、離婚問題・喧嘩の仲裁・賠償問題等で警察に訴えてくるも のがあり、これらは人事相談として扱いました。 もちろん強制力はともないません。 「小さいお寺の住職が離婚したが、嫁が持ってきた荷物を返さな い。結婚に要した費用を檀家が負担したのでそれを払ったら荷物 を返してやろうといっている。嫁は持ってきた荷物は当然返して貰 いたい」といって争ったあげく、警察の人事相談に持ちこんでき て、その相談に当たったことを覚えています。 【情 報】駐在、受持巡査は管内のあらゆる事案、また政治、経済 に対する住民の意向・反応などを報告することになっており、この 報告を『注意申報』といいました。これを多く出すものほど成績が よいといわれました。いわゆる情報で、西洋の諺に「一国の政治は 巡査の手帳から」というのがあるそうですが、当時住民の政治、経 済に対する反応は、県警本部に報告されていました。当時の高等 警察が情報警察で、県警本部の秘書課を情報課と呼んでいまし た。悪の根源のごとくいわれている特高警察は思想関係を対象と していました。 ・奥志摩 戦後の警察改革(昭和23年GHQにより国警〈国家警察〉と自警 〈自治体警察〉に分かれた)志摩郡(鳥羽市はまだ町であった)に は鳥羽署と波切署の二署がありました。 波切署は波切、和具の二町、甲賀、立神、畔名、志島、名田(な わた)、船越、片田、布施田、越賀、御座の十ケ村の、いわゆる奥 志摩を管轄していました。 奥志摩では真珠養殖が盛んで、真珠成金も多く、立派な家構え も各所に見られましたが、それは金を借りる銀行対策の手段だとも いわれていました。 真珠養殖による利益は大きく、志摩郡の財産の半分は、前島 (船越、片田、布施田、越賀、御座)にある、また前島の財産の半 分は間崎(まさき)島(和具町の一小島で英虞湾にある)にあるとい われていた、間崎島には御木本をはじめ個人の真珠養殖場がた くさんあり、特に御木本の養殖場は大きく、請願巡査(その警察官 の経費のすべてを負担し、もっぱら自己の施設、財産等の警備に 当たってもらう)を置いていました。 奥志摩一帯は気候温暖で人情は厚く、風光明媚でした。最近は 観光客の乱入で人情は薄れ、開発・開発で明媚な風光が失われ てゆくのは残念です。しかし新鮮な海の幸や夏には畑の片隅に 色づくユスラウメや山林には自生の山桃(この地方にはユスラウ メ、山桃が多い)など野趣溢れる味覚は今も残っていることと思い ます。 小豆島と同時にオリーブが試栽培されましたが、小豆島の成功 に対して、この地方では失敗したということです。かわりにマオラン (麻のようにロープ等の材料にする)がつくられているのが目につ きました。 ・波切(大王町波切)(波切町)・ 大王崎の所在地で戦後の町村合併で旧の波切町、船越、名 田、畔名、志島の各村が合併して大王町となっています。 波切千軒と言って、戸数約千戸で当時としては大きな町でした。 波切署もここにありました。漁業と農業と魚介類の商人の町でし た。 ・波切の女・ 『男一人養ってけないようなものは波切の女でない』といわれ、海 女となって、鮑・サザエ・天草等を採る。畑培りも女の仕事で朝早 くから夕方遅くまで畑仕事に従事する。 坂や段々の多いこの街では荷車はあまり使えないので畑への肥 料運びや、収穫物は天秤棒で担って運搬する。街中でも荷物は 頭に乗せてゆくのが風習で、ことにいい着物を着た正月やお盆に は荷物は必ず頭にのせて運ぶのが風習でした。 ・魚の水揚げ・ 沿岸漁業での魚介、遠洋漁船の入港による魚類の水揚げは多 く、何時も魚市場を埋めて威勢のよいセリ市が行われていました。 ことに鰹の時期になると鰹の遠洋漁船が一日何艘も入港し、そ の船が港入口に見えるとこの船には何トン位積んでいると予想し あったものです。いよいよ入港し水揚げされる。セリ市が始まる。ま ったく漁港はわきかえる状況でした。 当時は鰹節製造業者が多かったので鰹漁船の入港が多かった のですが、今は鰹節製造業者もなくなり遠洋漁船の入港もほとん どない状況です。また伊勢海老の時期になると、漁業組合のサイ レンを合図に、海老舟がよい漁場に網を入れるため、一斉に漕ぎ 出してゆくのも壮観なものでした。 ・甘薯(さつまいも)・ 耕地はほとんど丘陵地で甘薯、麦、野菜の栽培で、水田は町全 部で5、6反しかなく町民は甘薯を常食とし、戦時中米が配給制度 になって米を食うようになったといわれていました。 気候が暖かいので、10月末から11月にかけて甘薯畑には昼顔 に似た花が沢山咲く(私の郷里度会郡地方では甘薯に花が咲くと 不吉の前兆であるといって忌み嫌うが)この地方ではそんなことは いっていられません。 ・画家垂涎の地・ 波切は何処を畫いても絵になる。一流の画家になるには一度は 波切の絵を畫けといわれる。いわゆる画家垂涎の地として有名 で、2軒あった旅館には常に数名の画家が泊まり込みで、波切の 風景を写生していました。 ・祭と伝説・ 9月第1のサルの日にワラジ祭りが行われます。5米位の大ワラジ (竹を芯にしてつくる)をつくり、青年達によって海に流す行事で す。 これは昔、波切の沖にある無人岩に大男があらわれ無理難題を いってきました。そこで人々が相談して大ワラジを作り、その大男 に「陸地にはこのような大ワラジを履く男がいるぞ、お前のようなも のが来ても少しも恐ろしくない」といって大ワラジを海に流してやっ たところ件の大男は驚いてたちまち退散してしまった。 それから毎年大ワラジを作って流すようになったということです。 ・初音塚の伝説・ 当時はまだ初音塚というのがありました。 今は中学校の敷地になり、その塚は取り壊されてしまったようで す。 その昔初音という素晴らしい美人があり、多くの若者から思いを 寄せられたが、中でも2人の若者が初音をめぐって猛烈に争いつ いに2人が殺しあうにいたった。これを知った初音も投身自殺をし たが、これは自分が美人だったからで、これからは波切には美人 は産まれないようにすると神に祈って自殺したという。 それからは波切では女の児が美人に産まれなくなったという。結 婚したばかりの私は知人から波切では、女の児を産まないように と、よくいわれたものです。 ・汗かき地蔵・ 2月24日は汗かき地蔵のお祭りで、この汗かき地蔵は町の人々 の信仰はかなり高いものです。 大火災とか暴風などの災害が出る、戦争が起こるという重大な事 前になるとこの地蔵さんが体中汗をかいているというのです。そう して災害などを事前に人々に知らすというのです。 2月24日のお祭りには沢山の町民がお詣りして平穏に過ごせる ようお祈りするなどで賑わいます。 ・深谷水道・ 大王町と志摩町の境界(旧船越村と片田村の境界)に深谷水道 があります。太平洋と英虞湾を連絡する人工の掘割で、昭和初年 に県費13万5千円でつくられました。そのそば(船越側)に当時の 知事の筆になる竣工記念碑が立っています。 この水道によって太平洋と英虞湾の水が交流し、真珠の密殖に よって老化してゆく英虞湾を救うためつくられたもので、当時は小 舟の通行の便にもなっていました。 ・アメリカ村・ 志摩町片田(旧片田村)はアメリカ村ともいわれ、アメリカ帰りの 10数軒立派な屋敷、家屋が目立ち、またアメリカに渡航し西海岸 で漁業に従事しているというアメリカ在住者も相当数ある。これら の2世は小学3年生位までに日本で教育を受けさせなければ、真 の日本人にならないといって、片田村の小学校にはいつも2世が 数人いました。 これらの2世は親戚に奇寓し小学校教育をうけているもので、日 本語は片言ですが英語はペラペラだとよくいわれていました。 ・堕 胎・ 真珠成金とかアメリカ成金はあってもこれらは極く僅かで一般は 貧しい者が多く、貧乏の子沢山の諺のとおり、産まれてくる子供も 闇から闇に葬られるのも少なくなかったようです。 現在のように産児制限や中絶が簡単にできず、ほとんど助産婦 (産婆)の手によって行われたようです。もちろんわかれば堕胎罪 によって検挙され処罰されます。1人検挙されるとそれをやった産 婆があげられ、芋づる的に妊産婦におよぶので10数人から20名 におよぶことはザラにある。ほとんどが刑の執行猶予になっていま したが、1村に女の人で刑の執行猶予者が20名近くあるのは珍し い例ではありませんでした。 刑の執行猶予者は再犯防止のため警察では常に監視していま した。 ・和 具(志摩町和具)・ 志摩はどこへ行っても海女が多いのですが、和具には特に多 く、海女の町ともいわれ、太平洋岸では夏でも焚火を囲んで、もぐ りの間の休憩をしている群をよく見受けました。 和具は前島(さきしま)の首都で料理屋、旅館、飲食店等も数軒 あり映画館もありました。太平洋に浮かぶ大島には浜木綿(はまゆ う)が群生していて、花期にはエキゾチックな花と香が満ち満ちて いました。 この大島に小さな神社があり旧暦6月1日がそのお祭りで、その 日捕れた1番大きな鮑をお供えして豊漁と海の安全を祈願する。 祭礼が終わると潮かけ行事となる、いわゆる潮かけ祭です。土地 の者同志が海水をかけ合うのはもちろん、通行人や観光客にもか ける、一張羅の着物も服も海水でベタベタにされてしまう。町長さ ん、校長さん、町の人気者等は青年達に担がれて着たまま海に 投げ込まれるのもしばしばといった変わったお祭です。 もちろん潮をかけられても、海に投げ込まれても文句はいえな い、そうされることが一つの誇りなのです。 ・鶯・ 越賀と御座の間にある山に生息する鶯は越賀鶯といって、関西 方面では名声があり高値に取引される。越賀の人々は雛の時にこ の鶯を捕獲して飼育する。親鶯が餌を運ぶのを遠くから半日でも 1日でもジーッと見ていて巣を見つけて捕獲するのです。 鶯は保護鳥ですから捕獲には許可が必要ですが、愛玩のため 自分が飼育する1羽2羽しか捕獲許可はされませんから、これらは すべて密猟です。そうして捕獲された鶯はトラックの座席下などに 入れて密送し関西方面で販売されるのです。このための検問取 締りもやりました。 ・豚・ 前島には牛馬は飼育されていませんでしたが養豚は多く、特に 越賀に多く、立派な種豚がいて種付(交尾)にゆく時は綱をつけ なくても飼い主のあとについて歩いてゆくのをよく見受けました。 昭和14年にこの地方に豚コレラが流行しました。豚コレラは伝播 が早く、1頭がこれに罹るとその周辺の養豚のほとんどが全滅す る。 したがって豚はもちろん、飼料等も移動禁止される。これに罹っ た豚は、ストリキニーネを注射して殺して(斃獸解体)焼却する。 豚舎の隅で動けなくなっている豚もストリキニーネを注射されると パッと飛び起きて豚舎を4.5回一目散に走り回ってバッタリ倒れ て、そのまま息絶える。まことに可愛想で今でも目頭の裏にその状 況が焼き付けられたように残っています。 ・爪切不動尊と白浜・ 前島の最先端が御座です。ここにある爪切不動尊は、弘法大師 が自分の爪で岩に刻んだといわれ参詣者も多かった。ここは前島 での桜の名所でもありました。 志摩の海岸はリアス式で陸地から直ぐ深いところが多く、砂浜は 極めて少ないので海水浴には適しないが御座の白浜は数少ない 砂浜の一つで太平洋に面し、水はトテモきれいです。 最近各地の海が汚れたためこの白浜は世に喧伝され、夏は遠 方よりの海水浴客で賑わっていますが、太平洋に面し波が荒く危 険視されて、以前は海水浴場としても顧みられなかった。 こんな辺鄙なところまで来なくても伊勢湾沿岸に、千代崎、贄崎、 阿漕、御殿場二見浦等数多くの海水浴場があり、それらの方が安 全でもあったわけで、この白浜などに来る者は余程物好きな人物 だったのでしょう。 しかし最近は各地の海水浴場が駄目になり、また少々遠くてもマ イカーで簡単に来られるようになり脚光を浴びているのです。 (大正2年生) |