戦時中の想い出 当時、私は一志郡川口村(現白山町)に住んでおりました。 小学校3年末より6年卒業するまで、ずっと戦争でしたから、何か ら何まで、すべて無い・無い・無いの窮乏生活です。 もちろん必要な学用品すら、思うように手に入りません。 忘れられないのは、1年に一度ほどのわりで、クラス(55人)に運 動靴5足と、テニスボールほどのマリが3個…というような配給があ り、皆んな祈るような気持ちでクジを引くのです。 私など、一度も当たったことはありませんが…。先生が「だれそれ とだれそれに当たった」と口で発表するだけですから、本当にだ れとだれに当たっていたのかは、知るよしもありません。 丸めて、ポケットに入れられた「紙(神)のみぞ知る」の心境でし た。 だれに当てるかは、先生の意のままのようで、子ども心ながらに ずいぶん不公平だなと思ったものです。 でも、そうした中で救われたのは、父が裁判所の登記官であった ため、村でも大事にされて、食糧の欲しいときは、いつでも言って ほしいと農協の組合長さんが、母に耳打ちして下さったことでし た。 おかげで飢えずに乗り切れたのです。 田舎住まいのこととて、空襲というものにはとんと無縁で、津の空 襲の夜も、高い空から幾度も枝分かれしながら落ちてくる焼夷弾 が、本当に花火のほうに美しいと、庭の椿の木陰で、寒さと恐怖に 震えながらいつまでも眺めていたものでした。 そんな私にもたった一度の悲しい体験があります。 どうして、その場所にいたのか、どんなに考えても思い出せない のですが、気がついたとき、松阪の八雲神社横にある桜木病院の 二階にいました。 低く空襲警報のサイレンが鳴っている…。周囲の人たちが、あれ よあれよと思う間にどこかに消えてしまい、人っ子一人いない空間 に私だけがポツンと、とり残されてしまっていたのです。 まったく勝手のわからないままに、ぼんやりと窓の外を眺めている と、グ〜ン・グ〜ンと飛行機の音がし、大きなトンボメガネに帽子を かぶった姿が、はっきりと見えるほどの低空で来たB29がダン.ダ ン.ダン…と部屋の中に向かって撃ってくるではありませんか!。 その時のおどろきと恐怖、今にも心臓が止まりそうな気がしたも のです。 とにかくどこかの防空壕に入らなければ、とあせっているとき、ふ と松阪駅の前に、大きな防空壕のあるのを思い出し、あちこちで 機銃の音のする中を家から家へと軒下に身を潜めながら、夢中で 駅前に向かって走りました。 やっと駅前にたどりついてみたものの、「壕」は広場の中央にあ り、海岸の軍需工場のある方から低空飛行してきたB29が、駅舎 をヒョイヒョイと越えて姿を現すので、うかつには壕に近づけませ ん。 飛行機と飛行機の間をみて、少しずつ地を這って移動し、必死 の思いで壕に飛び込み、やれやれと思った瞬間、奥の方から雷 の落ちたような大きな怒声が飛んできました。 「馬鹿者!こんな時に飛び込んで来やがって!入るところを見つ かったら、ここに防空壕があると分かってしまうやろが!!」 この後どうしたのかは分からない…。前後の記憶が欠落している のです。 昭和20年6月、12歳の少女の体験でした。 (昭和8年生) |